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朝日新聞の天声人語に毎日新聞の記事。話が脱線してプロ野球の話。 [【コラム】馬耳東風]

2014年10月18日。土曜日の夜です。
みなさま、ご機嫌いかがでしょうか?
海賊放送局、Radio Performers - FM183 局長です。

先週から12日間の連続勤務も木曜日で終え、昨日は丸一日充電してました。
12日も連続で働いていると、正直なところ、新聞各社のネット記事を確認する時間も体力も気力もありません。何しろ、為政者側新聞社と違い、ポータルサイトに記事が掲載される頻度が低い新聞を確認するわけですから、確認するという意思がないと、分からないのが実情だったりします。

さて。
夕方あたりになってようやく目を通した今日の朝日新聞の朝刊。
天声人語でこういうネタを取り上げていました。

(天声人語)大学はどこへ行く(朝日新聞)

大都市と地方における大学進学率の格差拡大から、学問に関する疑問を提起した平成26年10月18日朝刊の天声人語。最後は、「スーパーグローバル大学」を育てる方針を決めた行政に対して苦言を呈する内容となっています。

ある意味、究極の
「学歴信仰の秩序維持」
でしょう。

まぁ、日本社会でもどこかで見たような光景かもしれません。
「強き者は、先人が築いた伝統を汚さぬためにも、永遠に強く在り続けなければならない」
直球で言えば、プロ野球の世界ですね。
「伝統があり結果を出し続けている者が、永遠に強く、尊敬される存在であり続ける」

しかし、こういう考えを人々に無理強いしてきたことが、
「プロ野球がスポーツ・エンターテイメントとして人々に貢献するのではなく、球団を所有すること自体がステータス」
という現実から逃れられないのではないかと、感じています。

本来ならば、プロ野球というのは
「お客様から頂戴するお金で選手に年俸が払われている」
という意識があって然るべきと思うのですが、選手や指導者になった方々にも居ますよね。
「あの強い球団のユニフォームに袖を通したい」
とか、
「あの強い球団に貢献したい」
と、
「プロとは掛け離れた考え方の人々」
が。
「特定の球団のみが強くあり続ければ良いという状況に陥らないためのドラフト制度」
で成り立つプロ野球でありながらも、
「己にとって不条理な制度を我慢して、子供の頃から憧れたあの球団に入りたい」
では、
「球団格差の存在を積極的に支持し、維持、拡大させていく」
ような考えの持ち主なんだと、思われても仕方ないでしょう。
↑そこらへん、「ランドセルを背負った小学生」を社章(?)とする右系出版社からチヤホヤされている、2013年に日本一、2014年に最下位転落した球団から契約更新ナシといわれて退陣した某氏の行動が露骨ですけどね。弟子をしっかりと「球界の頂点の頭脳役」に送り込みましたから。

と、見事に脱線しました。
なので、このブログ記事のタイトルにも追加しました。
「話が脱線してプロ野球の話」
を。
↑この脱線があるまで、「」で囲んだ文字はタイトルには入ってなかったです


さて、話を戻しましょう。
「スーパーグローバル大学」
の話題に。

結局のところ、
「1980年代後半のバブル経済期と1970年前後のベビーブーマー世代の大学進学を促すために認可された大学を中心に、大学淘汰を意図する政策」
なのでしょう。
「学生を集められない大学には、社会から退場してもらい、国家への負荷を減らす」
というのが、一般的な見方となるでしょうが、問題は、
「国家に役に立たない研究や、国家にとって不都合な研究を行う大学には、政策面で容赦なく介入させてもらう」
という意思表示ともなるでしょう。
「民間と手を組み、金になる研究を行え」
の号令で、今や大学は
「本来民間企業が勝手に行うべき研究活動の補助機関」
になってしまっているのかも知れません。暴言を吐けば、
「大学の存在は、企業よりも格下」
なのでしょう。本来は、学問を極める組織と、利益追求を極める組織で上下関係は見られないはずですが。

とりあえず、ダラダラと感じることを書き続けても、今後のネタが枯渇するので、この場のまとめに入りますが、社会的に
「頂点に立った人間が、己の優位性を感じられないという鬱積から、懸命に立場の低い人間を叩き続けている」
象徴なのかもしれません。出身校が
「国のお墨付き」
をいただいたら、
「気分が良い」
に決まってますから。

そして、
「己が上に立ち続けたい」
という意識の最たる例が、この記事で取り上げられている内容かもしれません。

慰安婦問題:朝日報道 メディアで飛び交う「売国・国賊」(毎日新聞)

「記事のタグ」という機能が、このブログサービスにはあるので、次の文字を付け加えてみました。

「校内暴力」
「いじめ」
「学級崩壊」

「失敗を許さぬ社会」
だからなのか、
「失敗をした相手は徹底的に叩き潰しても良い」
という文化だからなのか。
わかりやすく言えば、2014年のメディアで働く人々って、
「校内暴力の50歳代」
「いじめの40歳代」
なんですよね。
しかも、ゆとり世代と表現される年代の少し前は
「学級崩壊世代(地域によっては、ゆとり世代と被っていたりするかも)」
ですから、
「彼らの育った学校は、弱肉強食の無慈悲社会」
という表現ができたりします。

ゆえに、
「何の抵抗もなく強いものの味方(もしくは己自身が強い存在となる)につき、失敗をしたものに対して何の抵抗もなく攻撃する」
のかも知れません。
「役立たずは攻撃されるために存在する」
という、まるで
「動物の本能」
で動いているかのように。


「読者に考えさせる記事」
こそ新聞の役目でしょう。間違っても
「お国のために何ができるのか?」
から
「お国のためにならない人間を排斥する」
という思想誘導を行うのは、これこそ
「言論の自由の放棄」
です。

「読者に考えさせるとは何事だ!」
という怒りを持つ人々も増えてきているような昨今。
テレビの地上波のデジタル化によって、テレビを持たない市民が増えました。
そのテレビを持たない市民に対して、新聞は何ができているのか。
テレビに対して
「(エンターテイメントに限らず、報道などすべての面で)必要ない存在」
という判断を下している市民ですから、ポータルサイト経由であろうが、新聞への依存は高いと思います。
「国民に何も考えさせず、国家に都合の良い判断を国民にさせる」
という
「プロパガンダ」
ではなく、
「立ち止まらせてでも、大事なことは考えさせる」
存在であることが、新聞(新聞社に属する記者)にとって必要ではないでしょうか?

脱線の超長文ブログ。
この点だけは、更新停止した以前のブログを引き継いだようです。

それでは、みなさま。次回の更新までごきげんよう。

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